2016年10月20日木曜日

吉田修一原作、李相日(り そうじつ)脚本・監督の映画「怒り」を観て



映画を観るとき、原作を読まないで見るほうがいいという人が居る。
確かに原作が良かったから映画を観たら、全く面白くなくてがっかりしたとか、
上下巻で成り立っている物語を120分程度の映画に収めることに、そもそもの無理があるんだ・・とか、そういう話・・でもわたし的には、それらを含めても原作→映画というのは面白いのです。

この面白さに気付かされた初めての映画は「20世紀少年」でした。
原作は浦沢直樹の漫画「20世紀少年」。
映画とは、必ずしも原作に全て忠実である必要はない。要は「同じ」である必要はなく、むしろ表現の違いを理解したところに旨みがあると思うのです。映画「20世紀少年」では、原作では明確に表現しなかった部分を映画では明確に表現してされていました。原作と映画の連携が生み出す厚みですね。

「原作→映画」では、原作に秘められた物語を如何に引き出し纏め上げるか。。が脚本家と監督の腕の見せどころだと思うのです。そういう意味でいうと、映画「怒り」は、吉田修一の原作に李相日の感性が加わって作り出された合作と言えるのだと思います。

さて、本題の「怒り」のストーリーについて話を進めます。
原作では、様々なシーンで人間の弱さが描かれています。弱さ故に正直になれなず、二度と取り返すことのできない悲しみを生んでしまう。

千葉の漁港で暮らす洋平(渡辺謙)の娘の愛子(宮崎あおい)は、軽度の知的障害である可能性を両親は保育士から言われた過去があり、事実、少し他の子供と違うところがあって、父である洋平は少なからず娘に社会的な劣位を感じていました。実際に普通の娘がしないような事もした愛子を哀れんでいたわけですが、しかし、彼女は素直で正直でした。自分の社会的立場を理解し、それを隠すことなく、割り切って明るく生きていた。その姿を社会は「知的障害」という目で見ていたかもしれない。しかし、愛子はそれすら受け入れたいたのです。

「怒り」では、千葉の漁港で暮らす洋平(渡辺謙)の娘の愛子(宮崎あおい)の他、東京で大手企業に勤める同性愛者の優馬(妻夫木聡)と、親の事情で沖縄の離島に転校して米兵に強姦される女子高生・泉(広瀬すず)が、八王子の住宅街で夫婦惨殺事件を接点に、それぞれに異なる物語が展開されています。

ある時偶然に知り合ったその人を信じるのか信じないのか・・・。
一見、他人を信じるか信じないかが事の境目のように思えるこの物語ですが、実のところは誰かを信じるか、信じないかではなく、自分を信じれるか信じれないかだったのではないかと思うのです。

優馬は同性愛者である自分に自信がなかった。。泉は米兵に強姦されたことを明るみにする事は耐えられなかった・・二人は社会から自分の立場を護るために事実を隠した結果、愛が悲しみに、また愛が憎しみに変わってしまった。。唯一社会性に欠けると見なされていた愛子だけが現実とまっすぐに向き合おうとした結果、幸せを掴んだのです。原作では強調されていなかった田代を連れ帰る愛子の満足気な顔のアップは、それらを物語っていたように思います。

原作には描かれていなかったもう一つのシーン。それは、泉が米兵に強姦されている公園に隣接した家に住む母娘。ピアノの練習をする娘が外での異変に気づき窓の外を見ます。母親は泉が強姦されたことを知りつつも、今の暮らしを護るためカーテンを閉めるのです。当事者の泉もまた、自分を護るために、辰哉(佐久本宝)に強姦されたことを他言しないように求めます。その結果・・辰哉は殺人を犯してしまうのです。

結局、八王子の住宅街で夫婦惨殺事件を起こした犯人の山神の殺人動機は明確にされないまま話は終わるのですが、原作にはなかったセリフが映画にあって、それが唯一山神の殺人の動機をに匂わせています。

「やつは人の不幸を喜ぶような奴だ。そういう奴に哀れみの手を差し伸べるということは、そいつを馬鹿にしていることなんだよ。殺されるよな」

映画で流れてきたセリフなので、言葉は正確ではないけど、こんな内容のセリフだったと思う。

悲しみは時を経て怒りの種となり、いつかどこかで発芽する。

発芽した時には、もうその種がどこから来たかなんて誰にもわからないんだ。

残念なことだけれど、悲しみの多くは口にされないまま、誰にも助けてもらえないまま、背負い込まされてしまう。でもそれは多分、とても危険なことなんだよ。

0 件のコメント:

コメントを投稿