2015年11月8日日曜日

家庭内暴力で死んでしまった私の恩師

2014年11月5日は、私の人生の先輩の命日でした。

あれは、何年前だったかな・・。
小金井市に住んでいた時の事・・多分7年前だったと思う。

当時私は、宝石を売っていて、それもとても個性的な宝石を売っていました。

世間一般の宝石店のショウウィンドウで飾られている宝石は、
量産体制にある質の物なんですけどね、そこから外れた宝石を扱っていたんです。
それはそれは、大変躍動感のある生きた宝石で、
「石の時間」を内包し、石の「時間の光」があるストーンなんです。

個性的な宝石は、既成の服(空枠*石がセットされる前の指輪やペンダントの事)が似合わないんですよ。
量販店には、その美しさを引き出す空枠がないの。
だから、私は、その宝石にあった服を作りたくなって、彫金を学ぶことにしたのです。

初めて私が創ったジュエリーは、18金の指輪でした。
宝石は、非加熱ミャンマー産スタールビーで価格は18万円。
18万円の宝石と聞いて、皆さんはどう思いますか?

一般的にはルビーで18万円といえば、決して高くないんですよね。
でも、それは加熱石の話です。

宝石店には非加熱のルビーなんて売っていないですからね。
通常、宝石店で売られているルビーは加熱石です。
下手すると、

「非加熱のルビーは、現代では手に入りませんよ」

なんて、分かったようなことを言う店員がいたりして。。

でも、それは間違いです。
非加熱のルビーは存在します。
なぜ、店頭に並ばないかといえば、個性が強すぎるからなんです。

私の言う、「個性が強すぎる」とは、
内包物が多いという事です。

宝石はその多くが結晶体です。
長い長い年月をかけて、圧縮した塊ですから、
その間には、一つとして同じ環境は存在しません。
不純物と言われる物が入っていたり、圧力が四方からかかって、
断層があって均一でななかったり、また、色味も微妙に違います。
それが肉眼で分かるレベルの「個性」を宝石業界は嫌うんですよ。
なぜなら、その個性を魅力あるものとして理解し、説明できる人ないし、
それを理解して、受け入れられる価値観が浸透していないからなんです。

私は、このような個性的な宝石が大好きで、
この美しさをより良く伝える事に、ある種の使命感を持っていました。

ご縁合って、このように素晴らしく美しいスタールビーに合う指輪を作ってほしいとの依頼を受けて、私は作り始めたのでした。初めて作るジュエリーが18万円のスタールビーですからね、ビビりますよね(^^;)

それ以前から、仕事で御徒町のジュエリー工房と取引をしていたので、
指輪が出来るプロセスは知っていましたからね、作り進める事は出来たんです。
でも、最終段階で、宝石を指輪に嵌める工程は、素人では出来ない事は知っていました。
割ったら最後ですからね。唯一無二の宝石が天然無処理石なのです。

「どうしたものか・・・。どこの教室で習えばいいのだろう・・・。」

と思案していました。
だって、通常、教室というものは、カリキュラムがあるのが普通で、
いきなり、ずぶの素人が18万円のルビーで、18金の地金を使って、しかも途中まで自己流で作っている・・そんな人に教えますか?って、常識的に思いますよね。
私には時間がなかったですから、どうでもいい教室には行きたくなかったんです。

そんな悩みが頭から離れないでいたある日。
いつものように買い物を済ませて、頭の中は彫金の事でいっぱいで、歩いていたんです。

不図立ち止まって、見上げた先に
とある看板があって。
其処が彫金教室だったんですよ。

私は、迷わずその場でインターフォンを押しました。
そして、出てきたのが先生だったんです。

私は、先生に今の自分の置かれている状況を素直に話して、
続きを教えてほしいと願い申し出ました。
先生は、私の申し出を快く受け入れてくださって。

「初めから正直に言ってくれたから、私達も協力しますよ」

と仰って下さって、私は翌日から教室に通い始めたのです。


初日。

H子先生は、

「主人と話をしたんですけどね、あなたには主人が教える事にします」

先生のご主人のお父様は、某有名宝石会社の専属の彫金師で、
15歳の頃から、アルバイトで彫金をしていたという彫金のプロでした。
今では殆ど見ることのない地金から叩いて、細工を施す技術を持つ人で、
その技術や「視線」は本当に感動ものです。
私が、それ以上に感動したのは、技術屋でありながらアーティストであるという事。
自分のイメージを押し付けず、まったくの素人の私のイメージを最大件に尊重してくれて、
尚且つ、そのイメージを実現する技法を教えてくれるという人です。

私は、美容師をしていましたから、技術屋の欠点は知っていました。
ある一定以上の技術を獲得した人の多くは、枠をはみ出さないんですよ。
要は、自分が出来ない、もしくは好きではないデザインを受け入れない理由として、
理論的に不可能だ・・と簡単に言うのです。
私は、そういう技術者を何人も見ていたので、Y先生の姿勢には、
本当に圧巻でした。
尊敬できる先生に出会えたと思いました。
7年ほど前の話です。

2014年の7月頃だったと思います。
私は高知に移住して2年が経っていたある日、
H子先生から携帯に電話がかかって来たんです。

内容は、独立していた長男が失業をして、家に戻って来てからというもの、
家庭内暴力が酷くて大変だ・・・ということでした。
人づきあいが下手な子で、一般的な表向きの付き合いが苦手なのよね。

いろんな相談所に相談したけれど、何処も特例過ぎて手に負えないと言われて、
結局は、何処も助けてくれないのよね。暴力が酷くてね。
よくあなたの事を想いだすのよ・・・。高知に逃げてしまいたいと思うほどよ。。。。

話の途中で、インターフォンがなったみたいで、
「誰か来たから切るわね。また電話させてね」

その後、9月に私がH子先生にショートメールをしたときには、
メールは届かず帰って来てしまっていました。

それから、ある日はがきが届いて、
11月5日に他界した事を知りました。

彫金教室は、週に3回ありました。
生徒さんは皆、私よりもウーーーんと付き合いの長いおばさま方ばかりで、
もう何十年もの生徒さんだったんです。
だから、私は、きっと皆さんご存知で、H子先生の事を助けてくれているのだろうと、
勝手に想像でいていました。
H子先生も、電話では明るく話していらして。
でも、そうではなかったんですよね。

2015年11月6日。
H子先生の一周忌の翌日、私はY先生に電話をしました。
はがきを貰ってから始めてした電話でした。

電話のベルが鳴る間、私はY先生は元気で生きているのか?心配でした。
H子先生がなくなってから、気が狂ってしまっているのではないか・・・と思って。

呼び鈴が鳴り終わって電話に出た声を聞いてY先生とは思えなかった。
余りにも声が若くて元気だったから。

「岩城です」

「昨日はH子先生の一周忌だったから、電話をしました」

その電話で、初めてH子先生の死の原因を聞きました。
息子さんの暴力の末に、気が変になって、最後は救急車を呼んで入院。
約二カ月で死んでしまいました。
脳がやられていたという事でした。

「身体にあるアザの数々に眼が集まり、脳を遣られている事に気付かなかった」

という事でした。。

「警察も保健所も何処も取り扱ってくれなかった。」

Y先生が電話で言っていた。
7月に電話があった時、H子先生も言っていたことでした。

救急車で運ばれた日は、彫金教室のある日だったそうで、
生徒さんに電話で休むことを伝えたと言っていました。
息子さんの暴力が続いている最中、教室はずっとやっていたんですよ。
なのに、なんで?どうして、誰も助ける事が出来なかったんだ。

以前、私が教室に通っていた頃、H子先生がたまに、自分の若いころの話をしてくれました。

「主人は外で働いたことのない人だから、本当に私は大変な思いをして子供を育てたのよ。
一時、子供を育てながらお弁当屋をしていた事もあったの。」

「長男は喘息が酷くて、喘息が酷くなると、背中をさすって、大変だったわ」

H子先生は、結婚してからとっても苦労をされていて、
それは、話を聞くまでもなく、日頃接していて良く分かるレベルだった。
その上で、H子先生は私に「夫婦」というものについても、いろいろ話をしてくれた。

「貴方を見ていると、若いころの自分を見ているようだわ」

とよく私にいっていました。
私も離婚する前の結婚生活は、本当に苦労続きでしたから、
H子先生の苦労は見て取れました。
しっかり者で責任感の強い女性。
子供を産んだ責任を自分一人で背負った女性。
それだけではなくて、ご主人を支え続けた女性。

きっと、最後の最後まで、息子さんが立ち直る事を願い、
何とかしたい気持ちでいっぱいだったのだと思います。
全て自分で背負ってしまったのだと。。

自分の子供を信じていたに違いない。
息子さんの良い所を信じて止まなかったのだろうと、
H子先生は精一杯息子さんを愛していたのではないかと、
私は思うのです。でも、過酷極まりない環境があっって、
誰も助けてあげることが出来なかったんだ。

今、息子さんは精神病院にいるそうです。
多分、一生精神病院で過ごすのではないかと想像します。

「今は静かな時が戻っている」

電話口でY先生が言った言葉。

「H子先生も今は楽になれているでしょうね」
私は、Y先生に言いました。

H子先生。
とても知的な女性で、愛情の深い女性でした。
でも、息子さんを救う事は出来なかったんですね。
息子さんを助けたいと思う母の気持ちを救う事が、
周りの誰にもできなかった。

「息子に言われるのよ。どうしてYと結婚したんだ!って」

H子先生・・・。自分で何とかしようとし過ぎたのではないですか。。。
誰も悪者にしたくなかったから、自分が死んでしまったように思えてならない。

未だ、H子先生は、病気の息子さんを心配してるような気がして、
私は、いたたまれない気持ちになります。
それと同時に、なぜ、あの時、H子先生に「逃げてください」と言わなかった、
自分の愚かさが・・・、私もH子先生を殺してしまった一人なんだと思うのです。
懺悔と後悔の気持ちでいっぱいになる。

私は今日、ブログを書く事にしました。
こうやって、死ななくてもいい命を殺している。

「刑事事件にならなくてよかったと思っているんです。もし、息子の暴力で死んだという刑事事件になったら、今ある物も全部なくなってしまっていただろうと思ってね」

Y先生が言った言葉が心の深い所に刺さっている。

こうやって、死んでしまった命がいくつもあるのだろうと、
H子先生の死は何だったんだろう・・って、そう思うから。

誰も他人を助ける事は出来ない。
だからからこそ、目の前のドラマから目を背けてはいけないんだと、
これは、私の教訓として、皆さんに伝えたかったことなのです。

もしも、このドラマが刑事事件になっていたとしたら、
警察や保健所の責任も問われていたのではないかと思います。

H子先生もY先生も、何度となく相談に行っていたはずだから。
助けてほしいと言っていたんですよ。
警察も保健所も助けなかったんです。

「刑事事件にならなくてよかったと思っているんです。もし、息子の暴力で死んだという刑事事件になったら、今ある物も全部なくなってしまっていただろうと思ってね」

これはY先生の素直な気持ちでしょう。
生き残った者は、命ある限り生き続けなければならないのですから。
でも、、、。












0 件のコメント:

コメントを投稿