2014年11月11日火曜日

空の下 ~・一人の女性が農婦になるまでの物語・~ その3

その夜は、そのまま友達の車に乗って家族四人友達の家に行ったんだ。
暖かいシチューを用意していてくれて、本当においしかった。
体に優しい食べ物と静かな時間にたどり着けたよって。。

当時、私たちは避難者で、ありがたい事にとっても親切に非日常を与えてもらっていた。
でも、それが凄く疲れてね。だって一緒に避難できなかった東京にいる母の事とか、
兄家族のことなんかを考えて胸が裂けそうだったし、それでいて一見何も変わらないかのような世界の中で、普通を装っているのも、避難者として扱われるのも、どちらも辛かった。
いつだって、どんな時も普通の場所でいたかったんだよね。
お客様でいるのって本当に疲れるんだもん。贅沢な事だと思うかもしれないけど、
お客さまでいるのって疲れるの。
だから、静かで平和でゆっくりとした時間の流れる友達の家に来た時はホッとした。

独立している楽さっていうか、快適さっているか。。
このバランスってきっと難しいんだろうな。
助け合いながらも独立してる事って、日本人の大きな課題だと思う。
私を受け入れてくれた彼女は、もう何年も前に関東から四国に移住していて、
独自に社会活動に参加したり、土着の問題に取り組んだり、それもマイペースでしていたんだろうな。3.11の事態にも敏感に反応していて、関東からの移住者も当然の如くその必要枠を感知して、私達家族を受け入れるに当たって役場に働きかけて、受け入れ態勢を整えていてくれたの。
だから、私たち家族は異例の速さで町営住宅に入居することが出来た。
特例だよね。でも、それも私たち家族だけで終わってしまったんだけどね。
私たち家族は、その瞬間に走ったムーブに乗ったのね、だから、全てが異例の速さで進んだんだよ。高知県内のこの地に住めるようになるのは本当に早かった。

ノアの箱舟に乗ってから、箱舟がたどり着いた先がこの地だったんだよねって、
何の疑いもなく思えるほど、私自身はなーーんにもしなかった。
ただ、流されていただけ。一つだけこの波に乗る前に心に誓ったことがあったの。
それは、止まるところまで流され続けよるって事。
それはどういう事かというと、自我を出さないという事。
ただ、目の前に現れたものを受け入れるという事。
結局私が町営住宅に住むまでにした事と言えば、お礼を言う事だけだったわね。
「ありがとうございます」
って、それだけ、、でも何回言ったかなw相当言ったと思うよ。
友達が全部やってくれたの、しかも初対面の友達が。
一生忘れない感謝の気持ち。

そうそう、町営住宅に入居するにあたって一つだけ選ばなければならない事があったんだ。
それは、全校児童6名の小学校に小学校三年生に娘を入学させるかどうかって事。
その小学校に入学させることが同地域に町営住宅に入居する条件だったのよ。
(この町営住宅は小学校の児童数を増やす目的で建てられた住宅なのです)
隣の町に行けば、人学年40名ほどいる小学校があるの。
そこに通わすこともできる。
一方、町営住宅のある小学校は全校児童6名。
何年も前から休校がささやかれている小学校で、しかし、地域の人達の強い希望もあって存続している小学校だったのね。そんな経緯もあって、同地域に子供が来るって事は一大事だったのよ。
注目の的でね。地域の小学校に入ってほしいって強く願う人が何人もいたのよね。

『子宝』って言葉が生きている場所だなって思った。
都会に住んでいると、子供は邪魔者扱いされることが頻繁にあるでしょ。
商売の的としてのサービスはあるけど、子供が自由に遊べる場所や、
子供を見守る暖かい目って本当に少ない。
嫌になるくらい窮屈な都会には、子供は邪魔みたいな空気が沢山ある。
だから、嬉しかった、素敵だなって思った、子供を見守る村の人たちの目がね。

私が子供の頃に毎年父に連れられ行った父の郷里。
村には数人の子供しかいない村。
私が流れ着いた村は、子供の頃に見たそれにとっても似ていたの。
三十年前の父の里と同じような状況の村。
ちょっと恥ずかしいけど、運命を感じた。
だって、震災前の約三年ほどは、いつも疑問に思っていたの。
過疎化が進み消えていく農村があって、国内自給率も下がっていて
それらが大きな社会問題になっている一方で、
一極集中の過密地帯東京の住宅問題とか、粗悪な食品問題とか、両極端な世の中。
私は日々高額の家賃や生活費を稼ぐ為にダッシュで働いて、一日が終わるころにはクタクタ。
家を買うにも借りるにも、一生の時間のほとんどを労働に費やさなければならない都会での生活。
父が愛した里は、住む人が居なくなり淋しくなる一方よ。
沢山の田んぼや畑や山や広い家があるのにねって。

毎日、台所に立ちながら、

「これでいいのかな?なんかおかしいな?」

「都会に不満を持っている私が、それでも田舎に移住できないのはなんでだ???」

「今の生活の場を変える事が出来ないからか。。。苦しいな。。」

って、その思いは日々募るばかりだった。

「あーだこーだ社会問題を口にいたり、不満を言ったりしていたって、
結局は、何?都会の美味しい蜜に浸っていたいわけ私??って、
目の前にある問題に、しかも、それは手を伸ばせば触れる事が出来るかもしれないのに、
ほっとくわけだ私は・・・、これじゃー、偉そうなこと言えないよね、私==。」

ってww

田舎から人が消えていくことを憂いていても何もできない自分がもどかしかったのよね。
そんな最中に3.11があって、たどり着いた先が過疎の村だったの。
これは運命だと思うでしょ?ww
私に与えられたミッションだって、『思う存分やりなさいよっ』って言われてるなーと、そう思った本気で。

次回に続く・・・

2014年11月4日火曜日

空の下 ~・一人の女性が農婦になるまでに物語・~ その2

ザブ~ン ザッブ~~ン 波の音が聴こえる。
耳にも心臓にも心地よいこの音をただ聴き入るだけの生活は出来ないのかしら。。
出来ない事はないわよね、食べる物があって、寒さや雨風をしのぐ家があれば、
それだけで生きていくには十分よね。
それだけあれば、いつまでも波の音や光に喜ぶ鳥のさえずりを聞きながら、
風に吹かれて生きていくことは出来る。
そんな日常がずーーーーーっと続きますように、なくなる事がありませんように・・・。
そう、私はその為に農業を生業として生きていく事にしたのだった。

子供の頃、毎年帰る父の里。
行くときは正直嫌だったの。
親戚のおじさんたちは躾に厳しかったし、父からも「ちゃんとあいさつしなさい」とか、
色々うるさく言われてたから、緊張してね。
ところがね、夏休みの一週間はあっという間に過ぎて行って、
都会に帰る日が近づくと淋しい気持ちになるのよね。
今でも目に浮かぶのは帰る前日の夕方、
ほとんど使わなくなった集会所の窓から外を見ていた時の事。
目の前には田んぼが広がっていて、空はオレンジ色だった。
そんな景色を見ながら、明日はここからさよならだな・・っておもったら
急に淋しい気持ちになって、そんな自分に驚いたことを覚えているの。

「来るときは嫌だったのに、帰ると思うと淋しくなるって可笑しいな・・不思議だな。。」

って。色あせることのない小学生の私の記憶。
父の愛した故郷も今では限界集落。
子供は1人もいないどころか、爺さん婆さんばかりでやがて消えてなくなるのかな。。。

2011年3月11日、私は東京の小金井市というところに住んでいて、
天気も良く、庭で当時一緒に住んでいたパートナーの髪の毛を切っていたの。
家の隣は武蔵野公園という米軍のゴルフ場跡地で
都内では都心にアクセスしやすく比較的環境のいいエリアだった。
確か4時くらいだったと思う。
物凄い揺れが来て、直ぐに公園側の空き地に避難したの。
隣の人も出てきていて、ほんとにびっくりした。
揺れがおさまって家に入ると、棚から少しだけ物が落ちていて、ガラスとか割れていて。。
テレビをつけて福島沖で大きな地震があったらしい事を知ったの。
それから、原子力発電所で事故があったことも。。

当時我が家はインターネットで宝石を売って生計を立てていたんだけど、
3月15日はパートナーがミャンマーに石を買い付けに行くことになっていた。
この事態に家族を日本に残して行く事に不安を覚えていたけれど、
経済的にはそうも言っていられない状況。
福一の状況次第では避難するようにと、予め高知に住む彼の友人の電話番号のメモを置いていってくれていた。

彼を見送ったのが15日。
その後私は、ネットとテレビとラジオとリアル社会の4つを跨いで情報を集め続けていたのだけれど、一番戸惑ったのはリアル社会とメディアとのギャップ。
メディアでは未曽有の大事故!しかし、目の前の景色は小春日和で穏やかそのもの。
知り合いの家に訪ねて行っても「大丈夫じゃない・・」みたいな楽観バイヤス。
そんな中、15日だったか16日だったか??西に風が吹いていたので子供たちを家の中に監禁、
学校を休ませて、次の日には東京を出ようと心に決めたのだった。
もちろん、子供にはゆるーーい感じで。
「放射能が心配だから、春休みにもなるし、旅行がてら高知いこっ。
フェリー面白いよーー。個室取ってあげるからっ(^^♪」
みたいなね。だって、マジトークして、行きたくないとか、嫌だとかごねられたらたまらん。
とにかく今は放射能被害に会わせない事が何よりも先決だと考えた。
後悔したくなかったから、取り返しがつかないような後悔を。

震災直後からもしもの時に避難できるように出来る限りの準備は進めていた。
お客様からの注文の処理やそれに伴う手配。避難先の検討などなど。
パソコンでのメールや避難先の確保、福島の現状確認に追われながらも、
子供達にはそれを察しられないように普通を装うという。。。
本当に大変な時は、子供には内緒(^^)動揺させなようにしないとね。

私は、避難先を4つ考えたの。
京都、大阪、島根、高知。
京都はとても仲良くしていた友達夫婦がいたから、
大阪は親戚が居て震災直後から心配して非難するように言ってくれていた。
島根は父の里で、年老いておばさんが一人で住んでいるだけだったからね。
それで結果、消去法で高知になったというわけ。
この状況で非難するという事は、二度と東京に戻れない可能性も考えていた。
だって非難の理由は放射能だから、一度流れ出した放射能がなくなるとは到底思えなかったしね。
だから、非難する事=移住する可能性が高いとも考えたので、移住できる場所が避難できる場所の条件となった。

先ずは大阪、ここは都会で移住するには経済的にも東京のそれと同じだし、
シンドイなと考えたのでダメ。
京都は、まずは友達を頼って寮(友達の会社の)に入れてもらえないかと聞いたんだけど空きがないと断られた。加て「非難しなくても大丈夫じゃない?」と言われた時には、日頃、食べ物とか環境にうるさい友達だっただけにがっくりしたね。
いざとなると人間こんなものかってね(苦笑)
そして島根、家はあるし移住する事も物理的には出来るけど、家族で住むのは無理だと思った。
小学校もない、何もない、都会育ちのパートナーが住める場所ではなかったし、子供を育てられる環境でもなかった。
最後に残ったのが高知だった。早速私は、彼が残してくれた電話番号に電話をしたの。
この時は、もし友人が受け入れてくれなくても非難するつもりでいた、一度決めたら後戻りしないのが私のルール。

「避難しようと思うんだけど、受け入れてもらえませんか?」

その友達もはじめは少し渋っていた。多分友達自身に迷いがあったんだろうね。
でも、もう東京を出ると決めていた私は、

「○○さんが受け入れてくれなかったとしても非難することは決めたから東京を出るよ」

というと、

「よし、わかった。それならおいでよ」

って言ってくれたんだよね。

本当にありがたかったよ、その心意気というか、うん。
受け入れてくれる人が居て、初めて動くことができるんだよ、そうなの。
私達が高知に避難できたのは、暁さんのお蔭なんだよ。
この経験は、後に私が夏季疎開を主催する切っ掛けになったの。

「受け入れてくれる人や場所があるから、避難移住することが出来るんだ」

って、そのことは今の私の活動の礎にもなっている。
だから、田舎を自然を守っていかないと行けないんだってね。
帰りたくても帰れる場がなければ帰れない。
変わりたくても変われる場がなければ変われない。
「場」というのは取って付けれるものではない。
人の息吹と自然の息吹が織りなす空間そのものなんだよ。

軽自動車ムーブにパソコンと宝石、子供と保存食、当面の着がえを載せて、
お台場からフェリーで徳島へ、初四国入りーーー(^^♪
徳島の地に下りた時は、深呼吸~~。
解放された気分になった。

「あーーーー、ようやく抜け出せた~~~!!」

ってね(^^)
何から抜け出せたかって?
それは、だぶん、都会の雑踏や文明の綱。
ずーーーと、ここ何年も抜け出したかったものから、
解放されて走り出した気がした。爽快だった。

それから私たちは、東日本大震災という未曽有の災害による大きな気流に乗って
あれよあれよという間に高知県高岡郡中土佐町上ノ加にたどり着いたの。
ノアの箱舟がたどり着いた先がここだったの。
私たちを乗せた車ムーブ(ノアの箱舟w)がオーバーヒートしちゃったのよ(^^;)

夜9時過ぎてたかな・・。
何処にいるのかもわからない、縁もゆかりもない山の県道で動かなくなった車の中。
助けに来てくれたのは、矢伊賀に住む友達女史。
助けに来てくれたところで初対面~~~。

私:「すみま~~ん、こんな対面で~~」
女史:「よくきたね~~」

愛だよ、、愛。

次回に続く・・・。